心臓シミュレータの技術で、医療と社会に貢献する(前編)

【未来を創るチカラ Vol.10】心臓シミュレータ研究開発リーダー、渡邉 正宏

人体や生命の謎を解き明かそうとすればするほど、その不思議さと尊さが見えてきます。中でも心臓は難解を極める臓器ですが、今その複雑な挙動をコンピュータ上に再現して可視化する「心臓シミュレータ」の研究開発が進んでいます。画期的な技術開発の経緯から、医療と社会に貢献するイノベーションについて富士通の心臓シミュレータ研究開発リーダー渡邉正宏に話を聞きました。

複雑な心臓の医療と向き合う

「心疾患(心臓に起こる病気)によって亡くなられる方は多く、日本では死因の第二位です。米国では第一位。世界の先進各国の死因上位に位置付けられています。一方日本の医療費は40兆円を超えて高騰しています。

患者さんの心臓をコンピュータ上に再現し、シミュレーション技術によって治療や施術の効果検証が予めできるようになれば、心疾患で亡くなる方を減らすことができるのではないか。また医療費も削減できるのではないか。そのためのアプリケーションを開発したいという思いで、2008年から東京大学と一緒に心臓シミュレータ開発プロジェクトを始めました。」

スーパーコンピュータを活かして、実社会に貢献したい

「スーパーコンピュータ『京』の開発プロジェクトが立ち上り、2007年当時、スーパーコンピュータで高効率に稼働するアプリケーションの開発責任者だった門岡良昌は、実社会に貢献するシミュレータの開発を模索していました。その中で実用に活かせるものとして心臓シミュレータに着目したのです。このシミュレータの開発のために、修士・博士を出たメンバーが集められるなか、北陸先端大(北陸先端科学技術大学院大学)でヒト大動脈内の血流シミュレーションとバーチャル・リアリティ(以下、VR)の研究をしていた私も参画することになりました。」

研究を、赤門の中に埋れさせてはいけない

「私が富士通に入る前、東京大学の久田俊明先生(現、名誉教授)と杉浦清了先生(現、名誉教授)は、左心室の再現シミュレータの開発を進めていました。血流という流体と、心筋という構造物を一緒にシミュレーションすることは当時大変難しいことで、それを可能にしたこの研究を初めて見た時は驚きました。

私が入社したころ、久田先生、杉浦先生はすでに全心臓のシミュレーションを可能としていました。門岡はこの技術を赤門の中に埋もれさせてはいけない!と強く思ったそうです。思いを共有した私を含むメンバーは、久田先生と杉浦先生と門岡が中心になって3つのパート...医療画像からモデル形状を作るところ、そのモデル形状を使ってシミュレーションをするところ、最後にそのシミュレーションの結果を映像化するところに分かれてアサインされ、個別の患者心臓を再現するシミュレーションシステムのプロトタイプを構築していきました。個性豊かなメンバーが、それぞれのエキスパティを活かして力を発揮することによって開発を加速しました。」

心臓のすべての挙動を、根幹からシミュレーションする

「私たちの心臓の細胞は約60億以上あるといわれ、力学・化学や電気生理学現象が同時にかつ複雑に起きています。心臓のフィジオロジーというのですが、分子から臓器スケールまで様々な情報を伝え合って、一拍でコーヒーカップ約1杯分の血液を拍出します。この連携している各スケールの現象をすべて根幹からモデル化し導入することで、心臓の挙動を正しく再現することが研究開発の方針でした。

なかなかチャレンジングな発想で、先生方を含めたプロジェクトチームの研究推進だけでは果てしのない時間が必要です。しかし細胞やたんぱく質の分野毎には、世界中の心臓研究者によるモデル化の成功事例や臨床研究の事例が存在しています。それを一つ一つ検証し、おかしいと思うところは改善しながらうまく取り込んでいく。その結果、世界の心臓研究の集大成ともいうべき精度の高い心臓シミュレータが実現していきました。

これは先生方の素晴らしい戦略だったと思います。自分たちの技術がまさしく社会に役に立つということを信じ、できるだけ早く実社会に出すためにはどうしたらいいのかということを考えた選択でした。」

"一拍半"の挙動をスーパーコンピュータ『京』が再現した時の感動

「心筋の動き、その下の階層としての細胞やタンパク質の影響など、階層間で時間間隔の異なる現象を再現し、それをどうやって一心拍の表現にするか先生方が中心となり試行錯誤を繰り返しました。そして2011年にスーパーコンピュータ『京』を使って、2.3ペタフロップス(PFLOPS=1ペタフロプロップスは毎秒1000兆回の浮動小数点演算を行える)の計算速度で、心臓の細胞数を60億から6万に絞った上で、一週間研究者が交代しながら夜を徹して実行と修正を繰り返しました。その結果、京のほぼ全システムを約17時間専用で連続運用して、心臓一拍半のシミュレーションに成功しました。

私は可視化処理を担当していましたが、全部のデータが出てきた時には本当に驚きました。心臓という複雑な臓器の再現は、当時の人間の力ではこれが限界と思われましたが、あまりにすご過ぎて高性能計算技術分野での成果に贈られるゴードンベル賞の審査でも理解してもらえなかったのではないかと思います(笑)」

患者さんの心臓シミュレータを実現するために

「個人の心臓ではなくスタンダードな心臓で、とにかく精緻にシミュレーションしてみるということが共同研究のまず一つの目標でしたが、もう一つの目的は患者さん個人の心臓のシミュレーションを実施することを想定して、その処理の始めから終わりまでの技術を作ることにありました。心臓の形状を作り、機能性を設定する。心電図を合わせ、単体では存在しない臓器なので周りの血管との接合条件も決める。研究チームで互いに意見を出しながら、基礎的な部分をどんどん作っていきました。

例えば、CTやMRIでは心臓の特に外側の境界はほとんど映りません。モダリティで得られた画像データからどのように形状を再現するか、どこまでの精度で作るかということだけでもメンバーが苦労していました。短時間に短い手数で処理できるように、またシミュレーション後は可視化ツールによって医者が理解しやすい映像が出力できるように、色の分布や表現の仕方なども実際に医師の先生方と協議しながら一つ一つ解決して、医療に役立つためにはこれが必要だという土台の技術を作り上げていきました。2008年から2012年くらいまで、随分長くかかりましたね。最終的に組み上げた技術は、各部分をそれぞれ単体でも別の分野で活用していける技術になっていると思います。」

共同研究がスタートして10年。後編では、実社会で活用され始めた心臓シミュレータ研究の現在と、未来のビジョンについて聞きます。

富士通株式会社
第二ヘルスケアソリューション事業本部
第三ソリューション事業部
第一ソリューション開発部 シニアマネージャー
心臓シミュレータ研究開発リーダー
渡邉 正宏

2004年大動脈硬化性病変と血流による力学的ストレスに関する研究にて博士(情報学)を取得。
その後、文部科学省ITプログラム「VizGridプロジェクト」に研究員として参画、仮想会議システムの開発や人体内の大動脈内流れ解析の研究を推進。
2007年富士通に入社、スーパーコンピュータ「京」の開発プロジェクトの中で心臓シミュレータの共同開発プロジェクトに参画。
2015年未来医療開発センター生体シミュレーション開発室長に着任、2017年より現職。
VR技術を活用した教育向けの心臓ビューアの商品化を推進中。
平成30年度文部科学省科学技術賞研究部門「心臓シミュレータによる臨床研究」を他2名と受賞。